落第坊主が博士になった | 衆議院議員 森 英介

落第坊主が博士になった

衆議院議員 森 英介

 昭和44年3月、私は、憧れの東北大学金属系学科に入学を許された。天にも上る心地だった。東京育ちの私であるが、当時、ステンレス加工品メーカーを経営していた父から、金属だったら仙台の東北大、東北大だったら金属と、子供の頃から、折に触れて聞かされていた。それが、いつのまにやら自分の潜在意識の中に刷り込まれていたのだろうか、受験期になると、迷うことなく、東北大の金属を選んだ。「本多光太郎伝」や北杜夫の「どくとるまんぼう青春記」を読み耽って、東北大、そして、杜の都、仙台への思い入れは、募る一方であった。自室の壁に仙台市の地図を貼り、暇さえあれば、呆然と眺めていた。しかし、遺憾ながら、肝心の学力が全く伴っていない。現役で受験した年は、全く歯が立たなかった。次の年もダメ。2年目の浪人生活に入り、もう後がないという切羽詰った思いに駆られ、自分なりに、必死に努力した。その甲斐あって、予備校の模擬試験の成績も、どうやら合格圏内に浮上してきた。その矢先、安田講堂事件の煽りで、同年、東大の入試が実施されないことになった。何と、ついてないんだろう。
我が身の不運をかこった。本来、東大に行くはずの受験生が我が東北大にどっと流れ込んで来ることが予想されたからである。しかし、案ずるより生むが易し。その年は、幸いにも、難関をくぐり抜けることが出来た。

 それだけ道草を食って、やっとのことで入学できたにも拘らず、いざ入ってしまうと、すっかり気が緩んでしまい、およそ勉学とは縁遠い生活を送るようになった。本多光太郎博士には、顔向けができない。それでも、かろうじて、教養部は、2年で脱出することができた。その段階で進級し損ねた劣等生仲間からは、随分とやっかみの目で見られたものである。ところが、学部に進んでも一向に生活態度は改まらない。その結果、3年の期末試験でわずか21単位しか取れなかった。今はどうなっているか知らないが、当時は、3年から4年に進級する段階で落第することはなく、さりながら、3年の間に、最低29単位は取っておかないと、4年の結果を待たずして、4年間では卒業できないことが確定してしまう仕組みになっていた。さすがの私もうろたえて、恥も外聞もなく、何人かの教授を訪ね、何とか単位をいただけませんでしょうかと懇願してみた。しかし、そんな虫の良い話が通るはずがない。ある教授からは、私の単位をあげれば、留年しないで済むというのなら、考えないでもないが、これだけ大幅に足りないとなると、1単位増えたところであまり意味がないではないかと言われ、言われてみればその通りだと、自分でも、妙に納得したのを覚えている。その頃には、既に、4年になって所属する研究室は、小林卓郎教授の溶接工学講座に決っていた。小林先生は、例の温顔で、自分くらいの歳になると、2年や3年の遅れは、どうということはない、決ってしまった以上、仕方がないのだから、これからしっかり頑張りなさい、と励ましてくださった。こうして、私は、4年生を2回やることになった。その2年間を通じて、卒業研究の実験だけは、誰にも負けないほど、ひたすら愚直に、一所懸命やったと自負している。

 卒業後は、小林先生のお世話で、川崎重工業株式会社に入社することが決り、昭和49年4月に、神戸に着任した。自分は、つくづく学問・研究には向かないと自覚していたので、現場(製造部門)を希望したのであるが、何としたことか、技術研究所溶接研究室の配属となってしまった。また勉強をしなければいけないのかとうんざりしたけれども、勿論、わがままを言えるような立場ではない。それに、職場である研究室の雰囲気は、小林研の先輩の永井裕善博士などもおられて、実に明るく、活気に溢れていた。
当時の室長の寺井精英博士は、強烈な個性の持ち主で、研究者たるもの、博士号を持ってはじめて一人前、10年で学位を取れないものは、我が研究室から追放する、と檄をとばされていた。そんなことを言われても、自分には、到底無理だと、思わない訳には行かなかった。それでも、原子力構造物への電子ビーム溶接の適用というテーマを与えられ、一貫してこのテーマに取組むうちに、数年経ってみたら、ことによると、自分も、何とかなるかもしれないとかすかな手応えを感ずるようになってきた。その間、永井先輩には、終始変らぬご指導、ご激励を賜った。やがて、学位論文らしきものが出来上がり、名古屋大学の益本功教授に審査していただくことになった。既に、恩師の小林先生は、東北大学を退官されていたのである。益本先生のもとには、およそ2年間、月に一遍通った。論文を見ていただき、先生の指示に従い、追加実験や論文の修正を行う。あまりの厳しさに、途中で投げ出しかかったこともある。しかし、何とか、踏み止まり、破門にもならず、やっとのことで、益本先生に、これで良かろうとおっしゃっていただけるところまで辿り着いた。そして、昭和59年6月、工学博士号を授与していただいた。川重入社後、まる10年目のことであった。落第坊主が博士になったと、今は亡き父が手放しで喜んでくれたのが忘れられない。


(房総及び房総人 H12.1)より