東北大学基督教青年会館と外山義君 | 衆議院議員 森 英介

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東北大学基督教青年会館と外山義君

衆議院議員 森 英介

 私は、昭和四十四年に東北大学に入学した。東京育ちの私は、生れて初めて親元を離れて生活することになった訳だが、仙台には居住場所の心当りは全くない。そこで、合格発表を見に行った折に、とりあえず北三番丁の東北大学基督教青年会館を訪れてみた。入学試験の時に、たまたま仙台駅前でガリ版刷りの寮生募集のビラをもらっていたのである。
浪人時代に、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」などを読み、当時の私は、漠然とキリスト教精神に心惹かれるものを感じていた。しかし、いざ寮を目の当たりにすると、私は、些か気が滅入ってしまった。見ようによっては、風情のある旧式の西洋館と言えないこともないが、相当に老朽化した、陰気な木造の二階家である。それでも、他にあてもないので、一応、入寮銓衡を受けてみた。募集人員が三、四名のところに、七、八名の応募者が来ていた。銓衡の結果、幸か不幸か、私は、入寮を認められてしまった。

 こうして寮生活が始まった。ところが、寮に入った翌日から、私は、後悔の念に捉われた。なにしろ制約がやたらと多い。毎朝七時から朝拝。土曜日の夜は、寮生総会。加えて、教養部の間は、学内の聖書研究会の活動に参加しなければならない。私は、大学に入ったらヨット部に入りたいと思っていたが、到底そんな時間的余裕はない。年来の夢も断念せざるをえなかった。それほど不都合を感じるなら、寮を出てしまえば良いようなものだが、それがそんなに簡単な話ではない。入寮銓衡の際に、入寮を許可されたら特別な事情が無い限り四年間いることという条件を提示され、それを呑んでしまっている。退寮を希望する場合には、他の寮生全員が納得する理由がなければならないというのだが、誰もが納得する理由などそうそうあろうはずがない。結局、私は、大学時代の四年間をこの寮で過した。終ってみれば、その寮生活は、私の青春時代の掛替えのない財産となった。多くの出会いがあった。外山義君もその一人である。

 外山君は、私の一年後に入寮してきた。つまり、私の一年後輩である。あの頃の外山君は、アラン・ドロンの若い頃を思わせるような(と言っても、私は、中年以降のアラン・ドロンしか知らないが)美青年であった。感性の塊りのような人で、ガラスのように華奢で繊細な神経の持ち主であった。当時の寮は、一、二年生の間は二人部屋ということになっており、彼とは、半年間、同じ部屋で寝起きを共にした。六畳くらいのスペースに木造の二段ベッドが作りつけになった誠に手狭な部屋であった。聞くところによれば、牧師の息子で、ボーン・クリスチャンであり、私のような門外漢と違ってもともとキリスト教についても深い認識を持っていた。寮の理念からすれば、まさに正統的存在と言っても良い条件を備えた学生である。それにも拘らず、彼は、寮生活で並大抵でない内面的な苦労を味わったのではないかと思う。私たちの寮には、伝統的な気風とでも言おうか、それまでのお仕着せの価値観は、一旦ぶっ壊せ、その上で、主体性をもって自分なりの価値観を構築しなければならないというような気風があった。しかも、全国で大学闘争の嵐が吹き荒れていた疾風怒濤の時代である。寮生が全部で十四、五人というこじんまりした家族的な寮であるのに、その中に、ノンセクト・ラジカル、民青、ノンポリ、そして、私のようにどちらかと言えば右寄りの者と大学の縮図のようにおよそ一通りの立場の学生が揃っており、日夜、カンカンガクガクの青臭い議論を戦わせていた。

 このような環境は、外山君の繊細な神経には、かなりこたえたにちがいない。特に低学年の間は、日々の生活がなかなか大変そうに見えた。やや手前味噌になるが、そういう外山君にとって、私の存在は、ある意味で、心の安らぎになっていたのではないかと思う。
というのは、至って謹厳な寮生が多かった中で、私と同期の井沢康平君とはあまり素行が芳しい方ではなく、寮のOB、先輩などからは、とかく問題児扱いされていた。それだけに、私たちは、寮のドグマからは比較的自由であったからである。

 私は、昭和四十九年に大学を卒業して、仙台を離れた。それから、十年くらい経った頃、外山君は、関西で学会でもあったのだろうか、ふらりと拙宅に立ち寄ってくれた。当時、私は、川崎重工の神戸工場に勤務し、妻と二人で芦屋に住んでいた。強く印象に残っているのは、久々に会った外山君が見違えるように逞しくなっていたことである。その折に、近々スウェーデンに留学するという話を聞いたような気がする。

 その後、私も国会に出たりして、境遇が変った。いつだったか、スウェーデンから帰国した外山君が厚生省の研究所で活躍しているという話を風の便りに聞いた。それからまた時が巡り、昨年、私は、衆議院の厚生労働委員長を務めた。医療や福祉の問題が自分の政治活動の中心的テーマの一つになった訳だが、そこで又、外山君の近況を聞いた。いつの間にやら、京都大学の教授になっていて、今や、高齢者福祉の分野では、我が国の第一人者、大げさに言えば、カリスマ的存在だという。私は、正直なところ、心底、びっくりしてしまった。勿論、彼の感性や能力、そして、人となりは、誰よりもよく判っているつもりである。しかし、あまりにも繊細で、社会に適合して生きて行くだけでも容易ではないだろうと思われるような若者だった。その外山君が、立派な社会的活動をしており、それどころか、斯界で大をなしている。感慨無量だった。

 昨年の十一月九日の夕方、外山君の突然の訃報に接した。我が耳を疑った。十一月十五日、信濃町教会で行われた告別式に参列した折に、彼の経歴と業績を記した栞をいただいた。クリスチャニティに貫かれた、しゃくに障るほど見事な人生である。五十二歳の若さでこの世を駆け抜けるまでに、素敵な仕事を沢山遺していっている。外山君、ずいぶん頑張ったんだろうね。でも、ダメだよ、外山君、いくら何でも、これではカッコ良すぎるぜ。


(房総及び房総人 2003年5月)より