元溶接技術者の自慢話 | 衆議院議員 森 英介

元溶接技術者の自慢話
 ― HIPを利用した核融合炉ブランケット容器壁の製造方法 -

自民党核融合エネルギー推進議員連盟会長
工学博士・衆議院議員 森 英介

1.自民党核融合エネルギー推進議員連盟について

自民党に核融合エネルギー推進議員連盟(以下、議連)という議員の集まりがある。この議連は、ずいぶん歴史が古く、結成されたのはおそらく40年近く前であろう。地球上に太陽を作ろうという夢とロマンを抱いた当時の意欲的な若手議員たちが相集い、活発な活動を展開したと聞く。
その後も、この議連は、時代に応じてそれなりの役割を果してきた。その歩みの中でとくに大きな存在感を発揮したのは、今から15年ほど前、21世紀に入ったばかりの頃である。
核融合に関する研究開発も着実な進捗を見、日本、ロシア、アメリカ、EUが協力して、国際熱核融合実験炉ITERを建設しようという運びになった。初期の設計活動の段階では、科学者同士であるから、考え方や理論に関する衝突はいくらもあっただろう。それでも、各極間の利害対立というのはあまりなかったのではないかと思われる。
ところが、いざ、ITERをどこに建設するかという段になって、俄かに対立が表面化した。日本とフランスとの間で建設地の熾烈な誘致合戦になったのである。日本は青森県の六ケ所村、フランスはカダラッシュを主張して双方譲らない。そのとき、我が方の誘致運動の原動力となったのがこの議連であった。森喜朗元総理を会長に擁し、不肖、私は事務局を務め、誘致の実現に向けて猛烈な運動を繰り広げた。
しかし、政官民一丸となっての取組みも空しく、平成17(2005)年6月にITERのサイトはフランスのカダラッシュに決定された。日本は一敗地にまみれたわけである。日本勢の落胆は大きかった。ただ、不幸中の幸いとも言うべきは、日本の熱意が認められ、準ホスト国という立場が与えられたことである。日本とEUとが協力してより広範な見地からの核融合研究開発を実施する所謂“ブロード・アプローチ(BA)活動”の拠点が我が国に置かれることになった。
その後、平成19(2007)年10月に正式にITER機構が発足し、日欧露米韓中印の7極の参加を得てカダラッシュでITERの建設が始まった。それから8年あまりが経過したが、様々な理由によりこのプロジェクトは、今、難渋を極めている。しかし、本稿は、ITERについて論じることが本旨ではないので、ITERについてはこれ以上言及しない。

2.技術者としての私と核融合との関わり

私事に亙るが、私は、平成2(1990)年2月の衆議院総選挙において41歳で初当選した。衆議院議員であった父の他界に伴い、その後継として政界を志したものである。それまでは、川崎重工業株式会社(以下、川重)の社員で、技術者として働いていた。その時代に、実は、私は、核融合実験炉のR&Dに関わっていたことがある。
ある年、川重は、日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構、以下、原研)から核融合炉ブランケット構造物の設計研究を受託した。私も、その検討チームに加わっていたのだが、その検討の副産物として、一つの成果があった。ブランケット容器壁というのは極めて特殊な構造をしているのだが、私は、その部材の製造方法を考案したのである。特許を提出し、又、その方法で試作したサンプルを原研に納めた。それから長い年月が経過して、当該構造物の設計もすっかり変ってしまった。従って、私の考案した方法も特許もまるで意味が無くなってしまったにちがいない、そう思うともなく思っていた。
ところが、平成26(2014)年の春、議連のメンバーと共に青森県六ケ所村にある日本原子力研究開発機構のBAサイトを視察に行ったときのことである。私は、驚くべき事実に遭遇した。BAサイトの陳列台に並べてある様々な展示物の中に私がおよそ30年前に原研に納めたものと同一品ではないかと思われるようなサンプルが置かれていたのである。そして、説明役の研究者によれば、現在でもブランケット構造物のその部分の部材は私が考案した方法でしか作れないという。日本のみならず、世界中どこで作るにしても、この方法で作るしかないという。なんと、今でも私の考案した方法は、しっかり生きていたのである。
念のため、私は、彼に聞いてみた。「もしかして、この部材は、川重しか作れないんじゃないでしょうか?」と。すると、彼は、事もなげに答えた。「ええ、確かに、以前は、川重しか作れませんでした。でも、5年ほど前に特許が切れたので、今では、どこでも作れます。」と。私の特許は、昭和59(1984)年4月に出願しているので、計算が合う。

3.落第生が博士になった

私は、昭和49(1974)年3月に東北大学工学部の金属加工学科を卒業し、川重に入社した。と記すと、いかにも順調な歩みのようであるが、実態は滑ったり転んだりの道行きであった。そもそも大学に入る前に2年浪人している。そして、大学に入ってからも1年留年した。恥かしながら、およそ勉学とは縁遠い学生生活であった
ただ、大学の卒業研究の実験だけは愚直にひたむきに取組んだ。卒業研究の指導教授は、後に日本溶接協会の会長も務められた故小林卓郎先生であった。小林先生は、落第生の私に、「自分くらいの年になると、2年や3年の遅れなんかどうということはない。」と淡々と励ましてくださった。小林先生の人格に傾倒していた私は、その言葉を頼りに頑張った。辛うじて大学を卒業することができたのは、偏に小林先生のお蔭と言って良い。そして、川重に入れたのも、実は、小林先生のお蔭である。
当時は、新卒で3年遅れていると、入社試験を受験する資格のない会社が多かった。そんなこともあって、就職先を見つけるのに苦労していた私に、ある時、小林先生が言葉をかけて下さった。「川重が君を採用しても良いと言っている、入社試験を受けてみないか、」と。私は、闇夜に光明を見出したような気分であった。
指定された日に、川重の神戸本社に赴き、形ばかりの入社試験を受けて、採用が決った。誤算であったことは、大学を出てしまえば、もう嫌いな試験や勉強から解放されると思っていたのだが、技術研究所の配属となり、これからも勉強しなければならない環境に身を置く羽目になってしまったことである。
私の所属する溶接研究室は、神戸工場の中に在った。上司である溶接研究室長の寺井精英博士は、強烈な個性とオーラの持ち主であった。研究者たる者、学位を持ってこそ一人前、10年以内に学位を取れない奴は研究室から追い出すとのっけから宣告された。自分は到底無理だなと、私は、内心思った。それでも、溶接研究室の一員としての生活が始まった。
初年度は、造船の工作部門の現場実習を課せられた。罫書、切断、溶接、組立、足場等、全ての職種を実体験した。そして、その研修期間が終ると、私は、寺井室長から、「原子力構造物への電子ビーム溶接の適用」という課題を与えられた。当時の川重の溶接研究室は、電子ビーム溶接の適用化研究では、世界の中でもトップクラスであった。とくに大型構造物への電子ビーム溶接の適用には、力を入れており、高品質を要求される原子力構造物は、その適用対象として、きわめて有望と考えられた。しかし、我が研究室には、原子力構造物の知識を持ったものがいない。そこで、寺井室長に命ぜられて、私は、東海村の原研に1年間、外来研究員として送り込まれることになった。
後から振り返って見ると、この1年間が、私にとって大きな転機となったように思う。私は、原研においては一応、構造強度研究室の所属にはなっていたが、研究室では、格別の任務を持っていなかった。そこで、来る日も来る日も、図書館にこもって文献を渉猟し、読み漁った。この図書館には、世界中の原子力に関する文献が集められており、まさに原子力の情報の宝庫である。この1年間で学生時代の不勉強をかなり補うことが出来たような気がする。毎日顔を合せる人も原子力の専門家ばかりなので、耳学問でも知識が増えた。
また、ちょうどこの頃、高速原型炉「もんじゅ」の構造材料及び溶接施工法を選定するためのR&Dが始まった。動力炉・核燃料開発事業団(現日本原子力研究開発機構)が日本溶接協会などに委託し、学識関係者や関連各社によって構成される種々の委員会が設置されて、共同で検討が行われた。私は、これらの委員会にも川重を代表して参加し、或る分科会では、幹事役を務めたりもした。
こうした経験を踏まえて、神戸の溶接研究室に戻ってからは、私は、概ね一貫して原子力構造物の溶接問題を自らのテーマとすることになった。とはいえ、企業の研究所のことであるから、その折々に、航空・宇宙、潜水艦、産業機械等々、多岐に亙る溶接問題にも取組んだことは言うまでもない。
このように与えられた仕事をこなしつつ、研究室の先輩に叱咤激励されながら、溶接学会で発表したり、学会誌に投稿したりしているうちに、当初、別世界のことだと思っていた学位の取得にかすかな手応えを感じるようになってきた。まずは、恩師の小林卓郎先生に相談するところだが、先生は、まもなく定年退官を迎えられる。そこで、日頃から折に触れてご指導頂いていた名古屋大学の益本功教授に相談してみた。有難いことに、益本先生は、快く私の論文の指導と査読とを引き受けて下さった。
それから、月に一度、神戸から名古屋に通い、それまでの研究成果をまとめた論文を一章ずつ益本先生に見ていただいた。データの足りないところは、次回までに補完し、不都合なところは、修正した。その作業に一年くらいかかった。そして、全部材料が揃ってから、それを論旨の通った一篇の論文に仕上げるのに又一年くらいかかった。途中で投げ出したくなったこともあるが、何とか頑張り抜いた。学位論文の表題は、「原子炉用オーステナイト系ステンレス鋼配管への電子ビーム溶接の適用に関する研究」である。益本先生にこれでよかろうと仰っていただいた時には、思わず歓声を発したい気持であった。正式に学位を取得できたのは、入社してちょうど10年目、昭和59(1984)年7月のことである。落第生が博士になった。寺井精英博士は、既に川重を退社されていたが、入社時の寺井室長の厳命を何とか守ることが出来た。

4.核融合炉構造物とHIP技術

 さて、上述した原研からの受託研究では、私は、核融合炉ブランケット構造物の製作性についての検討を担当した。委託元の炉設計室の迫淳室長からは、こんなに複雑きわまりない構造物が果して本当に出来るものかどうかよく検討してみてくれと要請された。自分なりに、大いに想像力を働かせて精力的に検討作業に取組んだ。その結果、何とか構造物全体を製作可能であるという結論を得て、昭和54(1979)年頃だったと思うが、分厚い報告書1)を迫室長に提出した。

 なお、ブランケット構造物の中でとくに製作困難と考えられたのは、内部に冷却材の流路となる並列した多数の中空部を有するブランケットの容器壁である。この部材については、報告書提出時点では決め手となる製作方法が見当たらなかった。しかし、あるとき、私の頭に、その部材の製作方法がひらめいたのである。当時、世の中で、HIP(熱間静水圧加圧)という技術が注目を集めていた。数100~2000℃の高温下で数10~200MPaの等方圧を被処理体に加えるプロセスである。私は、HIP技術を利用すれば、ブランケット容器壁の製造が可能になるかもしれないことに気が付いた。
すなわち、板材の片面に多数の凹状の溝を平行に機械加工する。これに平板を合せると、四角い断面の中空部分が多数平行して形成される。この合せ材両端の開放部に当て板を当て閉塞した上で、全ての外側の合せ面を電子ビーム溶接により密封溶接をする。電子ビーム溶接を用いるのは、パネル内部の中空部分と合せ材界面の気密を保持し、かつ、真空とする為である。このように準備した合せ材にHIP処理を施すと、全ての界面が拡散接合のメカニズムで接合され、内部に四角い断面の並列した多数の中空部を有する一体もののパネルが出来るはずである。このアイディアを着想した私は、早速、特許2)を出願した。

 果してこの方法で本当に所期の部材が出来るかどうか、実験で確かめてみることにした。その頃、我が国で最も容量の大きいHIP装置を保有していたのは、福岡県黒崎市にある黒木工業株式会社であった。私は、同社に赴き、装置を借用して、サンプルのHIP処理を行ってみた。処理条件の設定に当っては、拡散接合の専門家でHIPについても詳しい溶接研究室の先輩、山田猛博士の助言を得た。
その結果、見事に狙い通りのものが出来た。すなわち、合せ材は、内部に多数の四角い断面の中空部を有する一体もののパネルとなったのである。試作したサンプルを原研に持ち込んで披露したところ、当時の核融合センターの森茂センター長および迫淳室長に大変喜んでいただいたのを覚えている。昨年、六ケ所のBAサイトで見た展示物は、このときのサンプルそのものではないかと思うほどそっくりなものであった。

5.元技術者であった政治家の使命と抱負

 かつて技術者であった時代に、自分のやった仕事が、時の流れと共に過去の遺物になってしまった。そう思い込んでいたところ、おっとどっこい、今日においても核融合の世界でその仕事が生きている、構造機器の製作に必要不可欠な技術として核融合の開発に貢献している。その事実を知ったことは、無上の喜びであった。技術者冥利に尽きると言って良い。

 そして、今、私は、立場が変って、自民党核融合エネルギー推進議員連盟の会長を務めている。前会長の大島理森衆議院議員が平成27(2015)年4月に衆議院議長に就任され、自民党籍を離脱されたのに伴い、後任に指名されたものである。歴代の会長に比べていかにも軽輩であるが、私が選ばれたのは、おそらく二つの理由による。長く議連の活動に関わってきたことと技術者としても核融合と縁があったことである。

 こういう立場から、核融合の開発、またそこから波及する科学技術の発展を応援出来ることは、私にとってはまさに願ってもない役回りである。技術者魂を胸に秘めて全力で自らの使命を果したい。

日本溶接学会誌 平成28年3月号寄稿(随筆)

参考文献
1) 日本原子力研究所核融合研究部炉設計研究室:“核融合実験炉ブランケット構造物の設計研究(JAERI-M 8470)”1979年11月
2) 特許公報 特願昭59‐83236“部材の接合方法”出願1984年4月25日