裁判員制度の始まりに臨んで思うこと | 衆議院議員 森 英介

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裁判員制度の始まりに臨んで思うこと

森 英介

 去る5月21日より、愈々、「裁判員制度」が始まった。これから、一般の国民が裁判員として重大な刑事事件の裁判に参加することになる。日本の司法の歴史では、画期的な出来事である。我が国では、これまで、刑事司法は、ごく一握りの専門家集団、すなわち、裁判官、検察官、弁護士の所謂「法曹三者」の手に委ねられていた。多くの国民にとっては、およそ無縁な世界であったと言って良い。かく言う私も、昨年の九月に法務大臣に就任するまでは、刑事司法手続きというのはどうなっているのか、裁判というものが実際どう行われるのか、殆ど何も知らずに過してきた。
 尤も、司法への国民参加という意味では、戦前の一時期、刑事裁判で陪審制が取り入れられたことがある。この制度は、大正12(1923)年に公布された陪審法に基いて昭和3(1928)年から施行された。12人の陪審員が、有罪・無罪の結論を出し、裁判官に対し「答申」するというものであった。対象とされたのは、被告人が否認している重罪事件である。陪審員は、直接国税3円以上を納める30歳以上の日本国民の男子であって、読み書きの出来る者から無作為抽出で選ばれた。しかし、この陪審制は、昭和18(1943)年から、施行が停止された。
 何故、この陪審制が継続しなかったか。一番大きな理由は、戦火が激しくなって、一般の国民に陪審員として集まってもらうのが物理的に難しくなったからだと思われる。加えて、この制度では、被告人は、陪審員による裁判か、裁判官による裁判かを選択することができたが、陪審員による裁判を選択した場合には、有罪判決を受けてもこれに対し控訴することができなかった。そのため、次第に被告人が陪審員による裁判を選択しなくなったというような事情もあろう。いずれにしても、我が国における国民の司法参加の初めての試みは、十分定着しないままで終った。
 この時期を除けば、我が国では、「裁判権」は「お上」の専管事項という観念が支配的だったのではないだろうか。なお、ここでは、一口に「お上」と表現したが、その指すところは時代によって変遷している。律令時代においては、朝廷、室町時代になると、幕府、更に下って、江戸時代は、各大名に、裁判権は帰属した。そして、三権分立の原則が取り入れられた明治時代に至って、司法に関わる「お上」の役割を裁判所と準司法と言われる検察とが担うことになった。そもそも日本人の心の底流には、「お上」に対するそこはかとない信頼があるような気がする。 その信頼に基いて、日本人は、長きに亙って「お上の裁き」を当然のこととして受け入れてきた。而して、冒頭述べたように、我が国では、明治時代以降今日まで刑事司法は専ら専門家の手に委ねられてきたわけだが、それで特に大きな問題があったとは、私は思わない。もちろん人間の営為だから、完全無欠ということはありえないにしても、当事者たる法曹三者の真摯な努力の積み重ねで、我が国の刑事司法は、総体として十分信頼に足るものであったと考える。
 問題点を挙げるとすれば、寧ろ、裁判や司法手続きが、一般の国民にとってあまりにもかけ離れた世界の出来事であったということであろう。国民からすると、言わば「隠された風景」だったのである。その結果、本来、社会の治安や法秩序を守ることについては、国民一人一人に責任があるはずなのに、どうしても他人任せになりがちであった。たとえば、世論調査によると、我が国では、8割の人が死刑制度の存続を支持している。もとより被害者感情にも十分配慮する必要がある。そして、私自身、死を以て贖わなければならない罪もあると考えている一人である。また、死刑制度の存在が犯罪に対して一定の抑止効果を持っていることも否定できないと思う。しかしながら、自分が死刑を宣告する、あるいは、執行する立場になるとしたら、果してどれだけの人が死刑制度を支持するだろうか。少々話は変るが、刑務所や拘置所などの刑務官らの苦労も並大抵のものではない。過酷にして危険、労多くして報われることが少ない。それにも拘らず、身を挺して職務に当る彼らの姿に接すると、心打たれる。しかし、治安の維持に重要な役割を果している彼らの働きぶりが世間の目に触れることは殆どなかった。
 さて、今般導入された裁判員制度であるが、国民から選ばれた6人の裁判員が3人のプロの裁判官と共に裁判に立会う。そして、被告人が有罪か無罪かを判断し、有罪の場合にはどのような刑にするかを決めるものである。対象となるのは、殺人、強盗致死傷などの重大な刑事事件の第一審、裁判員は、20歳以上の有権者の中からコンピューター処理により無作為抽出される。国会議員や司法関係者のように裁判員になれない人、又、裁判員に選ばれても辞退できる人もあるが、詳細はここでは割愛する。
 裁判員制度の意義について、法務大臣として説明するときは、次のように述べる。「国民が裁判に参加することによって、国民の視点、感覚が、裁判の内容に反映されることになる。その結果、裁判が身近になり、国民の司法に対する理解と信頼が深まることが期待される」と。しかし、個人的には、裁判員制度による国民の司法参加は、社会の治安や法秩序に対して国民が責任を共有しようという日本国民の意思表明ではないかと思っている。今後、この制度が多くの国民の十分な理解を得て、日本の司法にしっかりと根付くことを願って止まない。


「房総及房総人」2009年7月号より